震災20年 ふれあい喫茶「すまいる」

 震災20年に当たる2015年、都市生活コミュニティセンターの活動を改めて振り返りながら、今後の展望を考えていきます。
 ポートアイランドの仮設住宅で始まったふれあい喫茶「すまいる」は、その後、活動の場を復興住宅に移し、震災から20年を経た今も継続中です。今回はこの活動を担い続けてきた岡部眞紀子さんに話を伺いました。

震災発生当時のこと

――震災の時の岡部さんはどういう状況だったのですか?

岡部:ポーアイの23階に住んでいました。いつも6時に起きるのですが、その直前に突き上げるような地震が来ました。タンスが倒れてきたのですが、たまたま反対側のテレビに引っかかって、隙間ができて助かりました。 家族は無事だったのですが、子どもたちのところに行くにもいろいろなものが落ちていて、やっと辿り着く状態でした。

――ライフラインの復旧も遅かったのでしょう。

岡部:はい。でも冷蔵庫が満杯状態だったのですよ。都市生活の組合員ですから、配達の日のすぐ後だったんですよね。だから食べるものはありました。
 オール電化の家だったので、その日の10時には電気が通ったのです。ポーアイは電線が地中だったので復旧が早かったのです。ガスと水道は…うちはガスを使っていなかったのですが、水はたまたま10リットル位汲み置きしていたものがありました。

――いつ頃から都市生活の組合員になられていたのですか?

岡部:30年位前です。震災前までは利用するだけの組合員でした。

青空市から手渡し共同購入へ

――震災後に最初に参加された活動は。

岡部:ポーアイで仮設住宅支援の青空市(移動販売)が6月から始まったのですが、その時に組合員への参加依頼があって、全員で青空市をしたのです。まだ東神戸支部になっていない時期でした。
 青空市はポーアイ第一〜第四仮設で行いました。まだ第四仮設までしか出来ていなかったのです。1時スタートで、一時間ごとに4つの仮設を、2時、3時、4時と回って行きました。テントを組み立て、テーブルを出して、並べて、売って、仕舞って、忙しかったです。

 あの時で20人ほど参加していたでしょうか。トラックが2台、他の生協からもいっぱい応援が来ていました。
 仮設の人もたくさん来ました。すごい長蛇の列で。ポーアイの仮設は住宅街の外側に出来たので、トラックがガンガン通る道を越えて、(お店のある)住宅街に行くのが怖かったのです。道路の整備も出来ていなかったから、仮設住宅は雨が降るとドロが跳ねてそのまま家の中に入ってくる状態でした。

――青空市は一回だけでなく、その後も続いていくのですか?

岡部:毎週です。毎週水曜日。それが今も続いて、喫茶が毎週水曜日になっています。

――青空市でトラックで持ってきたものを売るのと、喫茶の間には、活動の内容にちょっと開きがありますよね。その間のお話を聞かせてください。

岡部:翌年(1996年)の3月に、救援に来ている人たちも戻っていく、「青空市がもう終わりだ」という話をチラチラと聞きました。でもこのままでは終われないと思いました。私と活動仲間で「このままでは終われないから何とか続けたい」と思い、じゃあどういう形でできるかという話し合いを池田さん(現:都市生活コミュニティセンター理事)と小松さん(現:生活クラブ都市生活職員)としたのです。
 話し合いの結果、人手は減るし、トラックも来れない。その中で4月から「手渡し共同購入」をはじめることになりました。生協の注文書から消費材をセレクトして(手渡し共同購入用の)注文書を作って、一軒一軒まいて、回収して、集計して、発注して、という作業を毎週しました。
 値段はカンパ金の補填で救援価格ということで。

――想像するだけでもとても大変な活動だと思います。

岡部:大変でした。毎週毎週、終わってから回収して計算して発注して、そして次の注文書をまた作って。あの時はよく働きました。20年前だからまだ若かったですし。
 でもやっぱりあの時は気持ちが…何かしようという思いがすごく強かったのです。
 共同購入は青空市の延長ですが、活動を縮小して、リスクも少なくしました。青空市は(売れ残る)リスクもあったので、それを無くすために注文書の形式にしたのです。

ふれあい喫茶のきっかけ

――共同購入はライフラインを支える活動ですよね。ふれあい喫茶はコミュニティをつくる、人をつなげる活動です。

岡部:喫茶に繋がるきっかけは、手渡し共同購入をするために4つの仮設で説明会をしたことです。あまりいい反応でない仮設もあり、集会所の「ふれあいセンター」を貸してくれないところもありました。その中で(後々つながっていく)第三仮設がとても手厚くやさしく迎え入れてくれたのです。
 そこで手渡し共同購入をやりながら、喫茶もやることになりました。
 第三仮設の暖かい感じがよかったのと、こういう集まりを続けてほしいと仮設の方にも言われたので、喫茶と手芸を始めたのです。ミュージックセラピーもその時にはじめました。

 手渡し共同購入のメンバーと、組合員も誘いました。それと港島中学校保護者の生涯学習グループから発展して発足したボランティアグループ「ひまわり」のメンバーにも手伝って頂きました。これは補助金が無くなるというので実は1995年の1月20日にで終わりにする予定だったのですが、地震でそれが流れて、2月の半ばに有志で集まって何かしようと。仮設住宅が出来るのは分かっていましたから、「ではポーアイマップをつくろう」と地図を作って仮設住宅に配りに行きました。その「ひまわり」の人たちも手渡し共同購入を手伝ってくれました。

――都市生活の組合員の方々と、地元の中学校の親の集まりと、地域の動ける人が総ぐるみで頑張ったのですね。
 「すまいる」という名前はいつ頃から使われているのですか?

岡部:1996年の4月からです。共同購入は毎週ですが、喫茶は月一回でした。
 (喫茶をやるのは)はじめての経験でしたが、戸惑ったことは特になかったです。みんな喜んでくれるし、楽しみにしてくれているから。
 それと、やはり(当時の第三仮設自治会長の)安田さんとの出会いが大きいです。共同購入をはじめるときも、棟ごとのリーダーを置いて集約をしてくれたりしていました。
 他の仮設でも共同購入は続けていました。
 その頃の一つの大きな出来事ですが、ある仮設に住んでいる女性の方が認知症になられて、私がお弁当を作って運んで行ったらコンロで鍋を空焚きしているところに出会ったりとか、だんだん自分自身のこともわからなくなっていくんですね。こころのケアセンターとつないだり、保健師さんとつないだりしながら、結局は施設に入られました。

――当時は介護保険の制度が始まる前ですから、ボランティアがヘルパーのような役割を果たしていた部分もあったのですね。
 共同購入はいつまで続けられたのですか?

岡部:仮設が無くなる1999年3月までです。仮設から復興住宅へとどんどん人が抜けていって閑散としたところまで知っています。
 ふれあい喫茶も月一のペースで始めたのを、第三仮設の最後まで続けました。
 活動内容は喫茶と手芸とミュージックセラピーで基本は変わっていません。他に第三仮設の行事のお餅つきなども手伝いに行ったりしました。
 小学校の当時の校長先生も地域のつながりを大切にする人だったので、地域とともにいろんなことをしました。

活動の場は復興住宅へ

岡部:その後HAT神戸に場所を移したのは、ポーアイの仮設から移られた方が多かったからです。HAT神戸の復興住宅は完成が1999年4月でした。

――HAT神戸は東と西とエリアがわかれていますが、岡部さんたちは西側で活動されていますよね。

岡部: HAT神戸は2つの区に股がっていて、東側が灘区で西側が中央区なのです。ポーアイの仮設から移った人は西側中央区の脇の浜に住まわました。

――仮設から復興住宅への引っ越しは、希望は出すにしても、どこに決まるかは分からないですよね。第三仮設の方がHAT神戸に移られるというのは……

岡部:自治会長の安田さんが全部把握されていたのです。(復興住宅に移られた後も)ずっと安否確認していましたから。ほぼ毎月回っていたそうです。本当にあの方はすごいです。

住民の自立と活動の自立

――仮設住宅が解消される段階で活動を終えたグループも少なくなかったですよね。これからは平常時になるという雰囲気で、外国人とか災害救援とかそれぞれのテーマの活動に移っていった団体も多かったと思います。その中であえてふれあい喫茶を続ける道を選ばれたのはどうしてですか?

岡部:仮設住宅で出来たコミュニティが(復興住宅への引っ越しで)またズタズタに引き裂かれたんですね。だから復興住宅で大変なことが起こるだろうと分かっていたので、人が集えるふれあい喫茶を開き、住民同士が触れ合う場が必要だろうなと思って取り組みました。
 本当に最初は大変でした。自治連合会があったのですが、なかなか活動の理解を頂けなかったのです。
 でも仮設住宅の知り合いの人がいて、楽しみにしてくれていました。そして楽しみにしてくれる人が増えていったこと。それが活動が続いた一番(の支え)ですね。

 住民の方々も仮設住宅の時はただで貰う「無料」に慣れていたんですね。復興住宅に移ってからは、みなさんも自立していかなければいけないし、こちらも活動資金がない。なので実費だけは頂こうと、飲み物とお菓子のセットを150円でスタートしました。すべて都市生活の消費材です。
(最初は)怒られました。「なんでお金取るんだ」って。
 でも「私たちもお金がないので実費は頂きます」と説明して、心の中では自分たちも自立していかねばならないのでいつまでもタダではないよ、との思いで、そこは全然ゆるぎませんでした。

――お客さんが減ったりはしませんでしたか。

岡部:それはなかったです。

――みなさん理解してくださって、そして喫茶の場を楽しみにして頂いていたのですね。
 仮設住宅では月一回だった喫茶ですが、復興住宅で毎週されるようになりましたね。

岡部:月一回だと、一回来られなくて空くと2ヶ月空いてしまいますよね。(人のつながりをつくることを考えると)毎週なんです。それに青空市や手渡し共同購入は毎週やっていましたから。手渡し共同購入の作業に比べると楽ですし、やはり楽しみにしてくださる方がいらっしゃることが大きいですね。
 とにかく他に支援の活動が何もない時期に始めましたから、最初の頃は70人位来られていました。当初はお店も何もない街でしたから。今の会場に落ち着いた頃で30〜40人くらいいらしていました。

 本当は地元の人にやってほしいと思っていたのですが、それが上手くいかなかったので、今は私がやれるところまでやろうと思っています。
 会場も現在の場所が機能していなかったので、スタートは県住の集会所で行いました。現在の会場を毎週使用するためには見守り推進員や県と市のLSA生活援助員、高齢世帯支援員の方々の協力で毎週開くことが出来ました。お客さんも連れてきて下さったりしています。今の地域福祉センターの会長も歓迎してくださっています。

20年、そして将来へ

――地域の仕組みと連携しながら活動されてきたのですね。
 青空市の時代から20年、復興住宅に移ってからの喫茶も丸16年経過しました。仮設住宅で60代・70代だった方々も80代・90代になられています。

岡部:お客さんもこの間に亡くなられた方がたくさんいます。
 復興住宅の中でも応援してくださる人がいて、仮設住宅の頃から毎週来てくださる人がいて、今は入院して来られていないのですが、毎週見守り続けている人も何人かいました。
 現在のお客さんで最初からの人は一組の夫婦だけになり、あとは途中からの常連さん。今でもポロッと新しい人が来てくださることがあります。

 途中、私の孫を一ヶ月の頃から連れてきていて、その雰囲気がとっても良かったです。娘のママ友も来てくれて、お客様も子どもの成長を毎週楽しみに見てくれる。自分の孫よりも成長を間近に見られますからね。そういう雰囲気を続けられるとよかったのですが、小学校に上がるとなかなか来れなくなりまして。組合員の方が繋ぐようにお子さんを連れてきてくださったのですが、幼稚園に通うようになると来れなくなって。ここ一年くらいはホームページで活動を見た近隣の方が来てくださったのですが、こんど転勤になられて。続くのはなかなか難しいのですが、子どもがいると雰囲気がぜんぜん違うんですよ。
 あと学生さんですね。神戸大学の学生が大学の休みの時期に来てくれています。サークルでずっと引き継いでくれています。

――20年を迎えて、課題、そして将来への展望はいかがでしょう?

岡部:ここはケアポート(特別養護老人ホーム)があっていろいろ取り組みをされています。その中で認知症の方を喫茶に受け入れる相談を頂いていて、今度その打ち合わせがあります。ケアマネジャーが顔見知りで喫茶の活動も存じていらっしゃるので、そんな話も頂くのですね。私は認知症カフェの活動に興味があるのですが、ここがそんな場になればいいなと思っています。
 一方で、私の地元はポーアイなので、そろそろポーアイの地固めをしていきたいという思いもあります。自分の老後もありますから。ポーアイでもこれまでの経験を活かしながら、いろいろな活動をしている方々とつながって取り組んでしていけたらと考えています。

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